第3章 統合的神話学と創作
(1)古来からの小説としての「神話」
1 作者はその時代の民たち
2 他の神話からのネタ集め
3 近くの神話とのコラボ
(2)現代そしてこれからの神話
1 マンガや小説アニメとしてまとめた神話
(作品そのものが統合的神話学。クトゥフ神話や他のSF・ファンタジー物語)
2 生まれ続け、変わり続けるもの
(倫理・哲学・心理の学問が人間のうちにあ る限り)
(3)自論集
1 哲学と神話
2 諸説や自分の思う説
3 地球に伝わる神話ごとのエリア名
1哲学と神話
超人(ニーチェ)からの思考
「永劫回帰」とは、歴史・時間の段階の考え方の一つ。キリスト教やヘーゲルは目的に向かうような一方通行の歴史進行を考えたが、ニーチェは、歴史は進歩・前進もまた戻り円環運動する時間の中での変化に過ぎないと「永劫回帰」を主張した。この「永劫回帰」を受け入れることを「運命愛」といい。「これが生きるというものか。ならばも一度」という代表的な言葉を残す。
また、「超人」とはその「運命愛」をもち、且つ既存価値・概念の枠を超えた新価値を自ら創る人のことをいう。つまり、超人こそ真の意味の自由を手にした存在と考えられている。しかし、「超人」はその世界ではあまりにも異質で万人に理解されにくく、既存概念世界(ニヒリズム世界)に風穴を空ける者であり、イエス・キリストも超人の一人とされている。ニーチェは、発展したキリスト教という宗教自体は否定的であるにも関わらず、イエス本人は否定していない。「超人」という存在は偉人として時には過激派として、どちらにもなりうる存在である。結果がどちらになろうとも、最初は必ず「反社会的でかつ社会に影響させる存在」となるのだ。
「超人」は一種の理想人ではある。しかし、人類全員が「超人」になれば共通価値がみいだしにくくなり、ある意味で人間として-の社会形成が崩壊する恐れもある。つまり、理想人(超人)が数人しか存在しないことこそが人間の理想と考えられる。このことは多少の皮肉さを感じざるを得ないたろう。「運命愛」を全員持つことがいいことではなく、既存価値に沿ってない新価値を基本的にはつくるれないものが多い方がよい、というものが人類の理想なのかもしれない。
哲学の本質と神話
哲学をただ考えることの一言でまとめず言うなら、「人類の存在に対する肯定的な思考」と「人類の存在に対する否定的な構え」の2つでできていると考えられる。「肯定的思考」とは好奇心のある積極的な思考(主体的な観念構成手法)のことである。また、「否定的構え」とは冷酷な消極的な捉え方(客観的な観念基礎概念)のことである。つまり、主観・客観、肯定・否定の概念の調和作業が、哲学する為のツールなのだろう。
このバランスを間違えると哲学にならない。人類の存在に対する肯定的思考だけでは純粋な学習・学問などとほぼ変わらなく、哲学といえる程の深みがでない。否定的構えだけでも、それはただ鬱になるだけで、哲学としての充実はない。哲学していくということは、人類を向き合いながらも鬱状態のように悩む続けるものなのかもしれない。
そして、哲学はどこの文学にも混じっており、神話にもこれが混じっていると思う。神話は基本、人類存在に対する「肯定的的思考≧否定的構え」が普通であるが、クトゥルフ神話は、「人類の肯定<否定」の割合で成立している。神話を総合的に考えると、人類の「肯定⋚否定」の哲学形成で成立することになるだろう。神魔(人を超えた存在)が存在すること自体が人類を少なからず否定的に捉える部分があるとした哲学の象徴だ。
つまり神話において「人類の存在に対する否定的構えが欠かせない」のである。この人類の否定的構えでより見出した人の弱み・欠点等を補う存在こそが「神魔」であるから欠かせない。人ができないこと・わからないことを神・精霊や悪魔・鬼等に説明するからである。
2諸説や自分の思う説
神魔学から見た仏教神魔について
~閻魔大王と仏教世界の冥王たち~
六波羅蜜寺の閻魔王像をみて、冥府の王結構いたなと思い出しましたが、たしか別に有名だからといって1番目ではなかった気がしたので、六波羅蜜時の資料館の人に聞いてみたところ、5番目の35日目にあたるそうです。以下に、「十王」をはじめとする審査神魔、彼らが担当するものが死後何日の人なのか、また何をするのか、ついてまとめました。
Ⅰ①7日(初七日):秦広王(不動明王)、「獄録」による書籍審査
②14日目:初江王(釈迦如来)
(三途の川がある。渡る箇所…三水の瀬・江深の淵・奪衣婆橋)
Ⅱ③21日:宋帝王(文殊菩薩)、猫・蛇による邪淫審査。
④28日:五官王(普賢菩薩)、妄語判定
⑤35日:閻魔大王(ヤマ・地蔵菩薩)、浄玻璃鏡による裁きと嘘をついた者の舌抜き
Ⅲ⑥42日:変生王(弥勒菩薩)
⑦49日:泰山王(薬師如来)、六道転生(六つの鳥居がありいづれかの門を通過)
Ⅳ⑧100日:平等王(観音菩薩)
⑨一周忌:都市王(勢至菩薩)
⑩三回忌:五道転輪王(阿弥陀如来)、追加審査
Ⅴ⑪七回忌:蓮華・蓮上王(阿閦如来)
⑫十三回忌:祇園・抜苦王(大日如来)
⑬三十三回忌:法界・慈恩王(虚空蔵菩薩)
ここでは、冥王として君臨しているというよりは、生者が死後どうするかを判断するための審査員としての神魔です。また、①~⑩のを冥界の十王とすることはありますが、詳しくは、13の神魔が君臨しているとされています。審査の過程を、段階として区切る場合、上記のⅠ~Ⅴに分けることができました。
Ⅰ:本審査前の仮審査のようなものが三途の川の前までに行われ、名簿内の対象者かどうかチェックする(メイン:釈迦)
Ⅱ:生前の邪淫や生活態度・真偽などの審査(メイン:閻魔)
Ⅲ:審査をもとに転生場所を決定(メイン:薬師)。
Ⅳ:六道転生場所決定しない場合の追加・臨時審査(メイン:阿弥陀如来)。
Ⅴ:審査がおわり転生後、本当にそれでいいか又は生者の要望等での見直し審査(メイン:???)
仏教のヒエラルキー(天部<明王<菩薩<如来)から考えると、明王あるいは菩薩の次に如来へとの流れの「部下→上司」の区切りでみると、ⅡとⅤについてはできませんでした。しかしが、元インドの神ヤマでもある有名な閻魔大王が入っているⅡ、十王には入っていないⅤということもあるので、なにか特殊な関係がそこにはあるのかもしれないとも考えられます。
<感想>
閻魔大王というとそこまで菩薩・如来・明王・天部などと関わりなさそうに聞こえますが、調べるとかなり密接な関係で、よく聞く釈迦如来とか弥勒菩薩とかほとんど知っているメンバーで驚きました。
同じ六波羅蜜寺の話で、四天王は北の多聞天しか子供がいない、というのを聞きました。鞍馬のほうに家族セットのものがあるとも言っていました。その妻というのが展示してあった吉祥天だそうですが、吉祥天は元女神ラクシュミ(―)なので、イメージは三神の一柱である維持神ヴィシュヌが夫かな(インド神話だと)、と思っていたのですが仏教ではまた別の説があるのということがわかりました。
結構、ところどころ寺の小規模なところに弁財天(水の女神サラスヴァティ)関連が多いなと感じ、七福神の中では毘沙門天(多聞天)よりも人気なのだなと思いました。
浄土寺では「八幡菩薩=阿弥陀如来」ときき、驚きました。八幡は「神道」で、神社の鳥居もあり、神仏習合の絶妙なハーモニーを感じました。五鈷杵をみて、インド神話の英雄的雷神インドラの持ち物の金剛杵ヴァジュラを思い出し、見た瞬間「ヴァジュラじゃね?」と思ったら五鈷杵と説明されたので気になって調べたら、金剛杵にも種類があり、独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵などがあると知って、ヴァジュラは「何こしょ」なんだろうと疑問に思いました。
浄瑠璃寺では、如来や菩薩ごと方角と担当・意味があり、9段階すべて行けないという考えの下、各段階に必ず阿弥陀如来がいるように9体用意するという発想自体が本当に興味深いです。大着なんだか細かいんだか…。